カタ屋の思い出このページでは、皆さんから寄せられたカタ屋に関するエッセイを紹介します。やはり、思い入れがあるのか、とても読み応えのあるものです。 皆様のカタ屋に関する思い出をぜひとも教えてください。お願いいたします。 |
昭和38生まれ。昭和46年〜50年ころに神社(茨城県結城市)の境内。 茨城県の結城市という所の出身ですが小学3〜6年生のころ、かなり頻繁にきていました。特に夏休みに入ったばかりのころに2〜3週間続けて来ていたように記憶しています。 人気のあるカタは般若の面や鷲が翼を広げているものなどで、かなり芸術性の高い物もあったように思います。おやじがやって来ると、どこからともなく噂を聞きつけて20〜30人の子供たちが集まってきてはそれぞれグループに分かれて各自持ちよったカタで作品(?)を作ってはおやじの所へ持っていき、点数券をもらって一喜一憂していました。 それから輪投げと言って(ぜんぜん輪投げとは違うのだが)、20個ぐらい並べたカタから1mほど離れた場所から粘土をパチンコ玉ぐらいの大きさに丸めた物を投げて入ればそのカタがもらえると言うのもありました。また、おやじの話し方がとても特徴のあるもので、カタで作った粘土をおやじに見せた後は必ず握り潰さなければならないのですがそのとき必ず言う「あい、ちゅぶして〜」や、おやじの採点に納得がいかず文句を言ったときの「あ〜、うるさい事はいわないでくれよ〜」などは、当時、私たちの間でかなりはやってみんなで真似をしていました。私たちは絵の具の筆を太さの違う物を何本か用意してそれを使い分けてきれいに仕上げるように工夫していました。 そうして夕方になると、展覧会といってそれぞれグループで持ち寄った作品におやじが順位を付けていくのですが、でき具合によってはかなり良いカタを商品にくれたりもしました。 おやじの人相風体は顔は浅黒く、頭は禿げていて、作業ズボンに夏でも長袖のニットのようなシャツを着て一見浮浪者風で、商売道具一式の入った大きなキャンバス地のリュックを背負い、いつもバスに乗って隣街の方へ帰っていきました。 今までこの話をすると、関東近県の人にしかわからず、特に東北や北海道出身の人でカタ屋を知っている人は皆無でした。 |